ようやく母と話せました。
ブログを書く元気も出ず、
故郷の東北弁を毎日テレビで聞いていたら、
ひどいホームシックになってしまい、泣いていました。
今日、やっと母と電話で話せました。
回線をゆずるために電話を控えていたのと、
かけても回線が混んでいるので、ずっと話せなかったんです。
メールでは連絡とれていたのですが。
母は、地震が起きたとき、青森県八戸市にいました。
建物の揺れが激しく、
壁などにつかまってようやく立っていたそうです。
揺れはとても長く、
その後、車で自宅に向かっているときでさえ、
車の中でグラグラと揺れているのを感じたそうです。
運転しながら
「この道路脇の電柱が倒れてきたら、
終わりだ」
と思ったそう。
家に着くと、父が自宅に戻っていました。
飼っているキャバリアはおびえてしまって、
その後、余震が来るたびにパニックになるそうです。
ぎゅっと抱きしめてあげないと興奮が収まらないそう。
家屋は幸いにも無事で、
94年の三陸はるか沖地震のときより、被害は少なかったとのこと。
ただ、町の沿岸部ではやはり、
津波で家や船を失った人がたくさんいます。
地震後、
すぐに停電となり、
父母は2日間キッチンで寝たそうです。
キッチンには、ラジオと、
これまた幸いなことに、うちには薪ストーブがあります。
ただ、キッチンで寝たことで母は風邪をひき、
体調を崩してしまっていました
地震直後にメールしたときは、
「こっちは大丈夫」といっていたけど、
約1週間たってみて、前より悪化しているかんじがしました。
「とにかく物がない。スーパーの棚はすっからかんだし、物が入ってきても、それを運ぶガソリンがない。灯油もない」
とのこと。
ガソリン不足は本当に深刻だそうです。
陸路が無理なので、いま首都圏からは飛行機(青森空港)しか
来れる手立てがないとも言ってました。
「物が届いて、あとガソリンがあれば、だいぶ良くなる」
とのことなので、
青森湾に石油タンカーが来てくれたら、
東北全体がかなり助かると思います。
母は、いま体調が悪いけど、
津波で全部失った人もいるから、
家にある米を精米して、町の直売所まで届けているそうです。
あとは、父の会社の人たちのために、炊き出しをしているとのこと。
「まるで戦後のようだ。戦争なんか体験したことないけど、戦後ってこういう感じだったんだなぁって思う」と話していました。
津波に何もかも飲まれた人、
寒い東北地方の避難所で過ごしている人、
福島の原発に不安を募らせている人、、、
母よりもっと悲惨な思いをしている人がたくさんいます。
せめて、原発の事故さえなかったら、とも思うけど。
万が一最悪のことがあれば、
うちの実家も危ないと思うので、
祈る思いでいっぱいです。
妹と弟の住んでいる場所では、
それぞれ計画停電が行われています。
ちゃんと食べているのか?心配です。
デビブのグランパは「マスミの両親は、マスミが日本にいないことを喜んでいると思うよ」と言ってくれたけど、自分は今、アメリカにいることに罪悪感を隠せません。日本にいるみなさん、ごめんなさい。
自分に今できることは、募金と、祈ること、そして少しでも世界の人に現状を知ってもらうべく伝えることなのかなと思います。
本当は母の元に戻って、手伝いたいのですが。
◎今日のシャイロ
シャイロの世話をすることで、少し悪夢から離れられます。
犬がいてよかった↓
遊びすぎてボールがボロボロに↓
テレビを見るとき隣にいてくれる↓